スペース栃の木

人は、初めての喫茶店に入って、なじみの場所のようにくつろぐことができるか。イエス。 東京を離れることが少ない私にも、そんな体験が、ローマと小樽であった。 その状況を思い出すと、格段急ぐ用事を抱えていないことと、店がエトランゼに慣れていて、 さりげない対応のため、気を使わないですむということが共通している。 もちろん、出されたコーヒーはうまい。あの時、何を考えていたのか。 思い出すことは、すべてがゆっくり運んでいたことだけだ。音は消えていた。

人の助けになる仕事をと、短絡的な発想で小学校時代から志望した医者の仕事に埋没した30数年。 小児科から脳神経外科に転身したが、メスで切り取れる病巣で解決する問題は少ない。 他人の苦悩や生死と深く関わる仕事は、やりがいもあるが、思い入れたっぷりに没頭すれば、 自らの肉体と精神も燃え尽きさせ、疲弊させる危険も内包していた。 効率と経済を優先させ始めた公立病院にも嫌気が差した。潮時であった。

魂が安らぐ場所を求めて

さて、「回転する車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂」 (チャールズ・モーガン)を得るために、一人となる時間が必要である。 自分は何ものであるのか、何をしようとしているのか。ゆっくり考える時間と場所が必要であった。

シンプルで、人を包み込むような空間。 その願いは、建築家で都立大学助教授の藤木隆男さんの設計を得て、実現した。 コンクリートのオフィスビルに入れ子の形で存在するスペースの壁面は白、高めの 天井は黒、そして床には栗の枕木を敷き詰めた。 南北に延びた凹凸のある部屋に差し込む光は、やわらかなグラデーションを醸し出す。 ここでは肩の力が抜ける。素直に弱さを吐露しても受け入れてくれそうだ。 魂の傷みを修復できそうな予感がする。

ぼんやりしたり、読書したり、会話したり、喫茶する時の机と椅子は必需品だった。 どっかりと座ってよりかかる椅子は気取らない形が希望だったので、 堅固なアンティークの椅子を一脚ずつ吟味した。 それらの中に欲しいけれども、素朴な形にしては値の張る椅子があり、 ためらいを感じた時、大工さんの一言は利いた。 「同じ形のものを造るのは簡単です。でも、この味は出せません。」 言いぬるかな。 この空間にふさわしいものは、ぬくもりのある星霜を重ねたものたちであった。

対となる大きな机の素材は、天狗の羽うちわのような形の葉をつけて、 初夏になると白い円錐状の花を持つ栃の木でなくてはならなかった。 幸い、巨樹の調査と保全にも関わる「巨樹の会」のご尽力で、 願い通りに栃の机も納まった。樹齢百余年。幅65〜83cm、長さ330cm、厚さ10cm。 その圧倒的な存在感は重さだけからではない。 木目には、光沢があり、樹皮の側から軸に直角にきらきらとさざ波がたつ。 これを "ちぢみもく" と言い、ふつう木材は横に縮むものであるのに、 栃は縦にも縮むゆえだという。

ひたすら聴いてあげて気づかせる

さて、このような道具立ての、極めて個人的な隠れ家にいて、また活動するのである。 メスは捨てたが、人間の不満や不安や苦悩は案外単純なことで解決することもあるのでは、 との発想を得ていた。

人は想いを現す。 発せられた悪口も愚痴も感謝も、聞いたからには、強かろうが弱かろうが、 キャッチボールのように受け取らなければならない。 決して放置したり、跳ね返してはいけない。話を聞くことは決して受身の営みではない。 確かに受けとめたよと伝え、選ばれた言葉の質や肌理、間合いや語り口から、 人の心の奥底に迫り、理解する。次の言葉を促し、まさに話し手に問題に気づかせる、産婆術。 人に寄り添い、話を聴き、医者の知識と実績を土台にして、枝葉を払い、 問題を鮮明化させる手伝いをする。

コミュニケーション不足を補う地味で新しい活動も起こっている。 「ファイナルステージを考える会」の代表世話人小山ムツコさんは、 自身が骨に転移した乳癌患者として8年目を迎えたが、 数年前から「傾聴力」養成講座を主宰している。

1950年代アメリカで始まった心理分析の方法や人間交流分析に基礎をおき、 死生学や宗教観、精神腫瘍学、老化や傷みに対する最新の成果も学習する。 癌や事故や災害や不幸のあれこれが及ぼす悶々たる胸のうちを、 心からの共感をもって聴き、カウンセリングでもなく、 アドバイスでもなく、そっと気持ちを寄り添わせる、そんな聴き役を求めるのだが、 何の利害関係もない温かい人柄の全くの他人が適任らしい。 自らが傷つくことも厭わぬ、人間を肯定する静かで大きなエネルギーを要すると思われる。

寛ぎと豊かな感性を深める隠れ家を

医者である私にも、大病院の3分間診療は不十分であり不満足でもあった。 「居合わせ、じっと受けとめ、立ち去らないこと」「時間をともに過ごすこと」 自体が一つのケアの形になることを願っている。

もし親類に医者がいたら、相談してみたいことを持ち込んでみて下さいと宣言し、 てぐすね引いて待っていたが、訪れた人の8割が回答を内蔵していた。 病院では、尋ね足りなかったというのである。私の役は産婆、本人の答えに確信と自信を与えただけだ。 他愛ない会話、一緒に味わう茶菓。

ときには机の栃の来歴も披露する。 雷に打たれて、頂きが朽ち、樹木医も放置すれば腐るのみと診断し、泣く泣く切り出された木であること、 この栃の子孫を残したくて最後の秋の実を一升も拾って播いたが芽吹かなかったので、 切り出したあとの所に奥多摩で発芽させた木を20本も植えていること、 風雪や蔦や宿木に拮抗して生長した幹の力が「ちぢみもく」として美しい木目となっていることなどなど。 具体的であり、象徴的である生き物がここにある。 疲れたときは、人もただそこにいるだけで、身を休めることができる。 目をつむれば、木々のざわめき、鳥のさえずり、陽の移ろいを感じることができよう。 知らず知らず、身は軽くなる。

木の香りも残るこの隠れ家は、私のクリニックだけではなく、実は外部に向かっても開かれている。 人びとが集い、ときに絵を、文学を、食事を共にし、創造力を喚起するためのスペースとしてご利用い ただくのも大いに歓迎である。 わが研究所の QOL とは、ふつう、生活(いのち)の質 Quality of Life の略として使われているが、 L は love や language や laughing や lesson や listener や loneliness まで含めて、 寛ぎと豊かな感性を深める場所にできれば幸せである。

藤原一枝

— Trendsetter,2000-5,p.6-7 —